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Channel: 臆病なビーズ刺繍
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今週の朝日歌壇から(6月2日掲載・其の?・)

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[高野公彦選]

(磐田市・伊藤正則)
〇  歯ぎれよく九条読みし高校の初恋のひとにいよよ会いたし

(嘉麻市・野見山弘子)
〇  里山の仲間入りしたボダ山がもっこもっこと新葉(にいば)盛り上ぐ

(神奈川県・九螺さらら)
〇  音読をすると言霊踊り出し黙読すれば脳を漂ふ

(宗像市・巻桔梗)
〇  ゲーセンに孫遊ばせて歌を詠む轟音は<雑音シールド>なれば

(磐田市・海山綾子)
〇  若死にの母にもらいし健康で我は二倍の誕生日祝う

(東京都・上田結香)
〇  休日はカーテンを洗い真っ白な波打つ光に包まれ午睡

(島田市・水辺あお)
〇  メーデーと憲法記念日永遠ゆゑに結婚記念日二日に決めし

(長岡市・国分コズエ)
〇  魂を抜く経ありて遺品から備品に変る小さき仏壇

(柏市・秋葉徳雄)
〇  たった今つがいとなりて静かなる鳩は相寄り口づけ交わす

(西宮市・室文子)
〇  レモン色のトートバックはバースデーにパパと選んだママへの感謝

今週の朝日歌壇から(6月2日掲載・其の?・)

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[永田和宏選]

(福島市・美原凍子)
〇  ほろほろと木通の花のこぼれいて空き家はずっと空き家のまんま

(西宮市・室文子)
〇  日本の標準子午線歩いてる私も十二時みんなも十二時

(仙台市・小室寿子)
〇  吾子の手の人差し指と親指に挟まれて来しタンポポの綿毛

(塩釜市・佐藤龍二)
〇  野晒しの漁網の青きガラス玉再び海に戻る日は来ず

(大阪市・安良田梨湖)
〇  ぱちんぱちんと爪を切るたびああ私ひとりなんだと思う夕暮れ

(船橋市・藤井元基)
〇  ねむり花咲きて五月雨上がりけり浄瑠璃寺への野辺の坂道

(館林市・阿部芳夫)
〇  思い出がうまく発酵するようにときどき触るる東京の風

(大阪市・澤田桂子)
〇  深呼吸して産院へ自転車を漕いだ去年のあの日の風だ  

(フランス・松浦のぶこ)
〇  アフリカやアラブの人に幾たびか握手されたり憲法ゆえに

(東京都・井ノ川澄夫)
〇  ノーベル賞貰いたいのでもう少しこのままそっとと憲法は言う

今週の朝日俳壇から(6月2日掲載・其の?・)

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[金子兜太選]

(佐賀県有田町・森川清志)
〇  春愁や溺るるほどの語彙もなく

(いわき市・馬目空)
〇  知的なる少女の裸像聖五月

(熊谷市・内野修)
〇  花見かな山に挟まれ川とあり

(東京都・たなべきよみ)
〇  夏浅し雲に足らざる力瘤

(静岡市・西川裕通)
〇  青嵐の渺渺を吹けオホーツク

(龍ヶ崎市・舛谷孝平)
〇  目借時早や早苗饗に浸りをり

(岐阜市・阿部恭久)
〇  五月とか働き遊び夕映えて

(福島県伊達市・佐藤茂)
〇  山笑ふ一つ返事がこだませり

(東京都・青柳森)
〇  犬乗りて日覆させるベビーカー

(さいたま市・久保田恵子)
〇  つばくろやスイッチ入れつ放しなり

今週の朝日俳壇から(6月2日掲載・其の?)

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[長谷川櫂選]

(調布市・浅野文男)
〇  豆の飯鳥獣戯画の碗回す

(奈良市・田村英一)
〇  夏落葉掃いてしばらく風とゐる

(鹿児島市・青野迦葉)
〇  雨の日の朴の白さでありにけり

(東京都・芳村翡翠)
〇  吉野山荒い息吹の花吹雪

(高崎市・岡田トミ子)
〇  芍薬は家庭訪問ころの花

(佐倉市・三谷恵子)
〇  手に負へぬカリンの花の多さかな

(川崎市・池田功)
〇  そら豆の色は地球の色なりし

(藤沢市・久道陽吾)
〇  老年のつつましければ著莪明り

(茂原市・鈴木ことぶき)
〇  老いたれば子供神輿の付き人に

(帯広市・吉森美信)
〇  草笛を吹けば満州蘇る

今週の朝日俳壇から(6月2日掲載・其の?)

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[大串章選]

(横浜市・志摩光風)
〇  鯉幟風かがやかせゐたりけり

(武蔵野市・水野李村)
〇  母の日を知らざる母の位牌拭く

(東京都・竹内宗一郎)
〇  サイパンの戦車小さし夏の月

(高松市・柴田清子)
〇  聖五月天使の羽根を拾ひけり

(松戸市・大谷昌弘)
〇  蜂は飛ぶボルガの舟歌歌うごと

(霧島市・久野茂樹)
〇  ひとり見る遠流の島の卯浪かな

(熊谷市・内野修)
〇  雀の子人に飼はれて人の子に

(稲沢市・杉山一三)
〇  風孕み鯉羽ばたいて龍になる

(羽村市・寺尾善三)
〇  巨船来れり丘の若葉に触るるかに

(山梨県市川三郷町・笠井彰)
〇  葉桜や花ありしこと忘れゐし

今週の朝日俳壇から(6月2日掲載・其の?)

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[稲畑汀子選]

(和歌山県上富田町・中松健)
〇  峡の里花椎の香に埋もれけり

 掲句の作者・中松健さんがお住いの和歌山県西牟婁郡上富田町は、平成26年5月1日現在、所帯数6,566戸、人口15,355人の田舎町である。
 和歌山県の西牟婁郡と言えば、田辺湾や白浜海岸など、黒潮の流れる海を連想させるのであるが、上富田町自体は海に面してはおらず、作中の表現にある如く「峡の里」と言うべきイメージの静かな村里である。
 ところで、作中の「花椎」とは、ブナ科クリ亜科シイ属の樹木(スダジイ等)の花が開花した状態を指して言う言葉であり、シイ属の樹木は、我が国西日本の照葉樹林を構成する代表的な樹木であるから、「峡の里」、上富田町のあちこちの寺院や神社の境内にはスダジイなど椎の巨木が村の守り神のようにして生えて居り、開花期になると村里一面に薫り高き花椎の匂いが立ち込めるのでありましょう。
 〔返〕  大阪で夜勤に励む健さんの鼻に引っ付く花椎の香り


(西宮市・黒田國義)
〇  田も畦も人に渡りて蛙鳴く

(静岡市・松村史基)
〇  一山の余花ほろほろと暮れにけり

(東京都・藤森荘吉)
〇  大いなる地球のみどりうすみどり

(柏原市・早川水鳥)
〇  卯月波切りクルーズの小さき旅

(北海道音更町・信清愛子)
〇  大雪も日高嶺遠し夏霞

(堺市・吉田敦子)
〇  牡丹剪り空の青さを切り取りぬ

(島原市・三好立夏)
〇  幟杭ひねもす重き音立てて

(米子市・中村襄介)
〇  鈴蘭の風に音なき音のあり

(西宮市・竹田賢治)
〇  芍薬の白き気品の風に揺れ

今週の朝日俳壇から(5月26日掲載・其の?・日曜日特集)

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[長谷川櫂選]

(燕市・高橋芦人)
〇  掛けられし袋の中に桃の夢

 「私の手に拠って『掛けられ』た『袋の中に桃の夢』がある」とは、極めて文学的かつロマンチックな発想のように思われるが、その実は、営利本位の桃栽培農家の主人特有の現実的かつ打算的かつ手前勝手な発想であると言わなければなりません(笑)。
 〔返〕  身を蔽ふ袋の中で白桃は食はるることも知らずに熟す


(秦野市・熊坂淑)
〇  矢車のときには哭くよ恋の風

 「恋」をしている女性にとっては、朝の庭に雪が降り積もっていれば、その雪は取りも直さず「恋の雪」であり、宵空に月が昇れば、その月は取りも直さず「恋の月」であり、千鳥ヶ淵の桜が咲けば、その桜はとりも直さず「恋の桜」なのである。
 時恰も風薫る五月晴れの子供の日。
 神奈川県秦野市の熊坂淑さんのお宅の表庭には幟杭が直立していて、その先端に据えられた「矢車」が五月の風のまにまに凛々と音を立てて廻っているのである。
 それを聞き逃さなかったのは掲句の作者の熊坂淑さんである。
 その頃の彼女は不倫の恋に悩み、ご夫君や二人のご子息を棄てて相手の男性の許に走るか否かとの選択を迫られていたのである。
 そうした状態に置かれていた彼女は、表庭に直立した幟杭の先端で凛々と廻っている「矢車」の音に耳を澄ましながら、「心という厄介なものを持たないあの『矢車』さえも『ときには哭くよ』」と感じ、彼の「矢車」をかくまでも哭かしむる五月の風を「恋の風」と感じたのでありましょう。
 〔返〕  矢車の時には暴れ哭き喚く恋風魔風しばらく吹くな


(横浜市・込宮正一)
〇  夏めいて今日のこの日のかをりかな

 季節は未だ葉桜の頃なのに、抱き締めてみたらどんなに心地良いだろうと思わせる胸の谷間を思いっ切り魅せる胸空きのワンピで豊満な肉体を包んだ女性の手を携えて、掲句の作者・込山正一さんは、今しも横浜の日本大通りを山下公園方面へと足を運んでいるのである。
 その行先にどんな出来事が待ち構えているが、その時の込宮正一さんにはまるで分からない。
 昨夜、能楽鑑賞帰りのタクシーの中で、彼女がふと漏らした言葉、即ち「明日の日曜は晴天みたいだから、貴方と山下公園にでも行ってみたいわ。ここしばらくの間、私はあまりにも仕事が忙しくて、海の匂いを嗅いでいないから」という、何気ない言葉の裏に秘められた女性特有の魂胆、即ち、山下公園を散歩して海の匂いを嗅ぎたいというのは、あまりにも見え透いた口実であり、その実は、山下公園の先に在る元町ショッピングストリートの高級ブランドショップで十八金の鎖付きハート型の「ガディノ・バッグ」を買わせようとする悪辣な魂胆を知覚するには、今の込宮正一さんはあまりにも鈍感過ぎたのである。
 それでも尚且つ、毎週一回のネイルサロン通いを欠かさずにして十本の指の先の爪を残らず虹色に彩色した彼女の手を携えながら、我らが込宮正一さんは、必ずしも長いとは言えないおみ足を山下公園方面へと運んで行くのである。
 その時、彼の周りに一陣の涼風が吹き起り、それと共に彼女の豊満な胸の谷間からは、「今日のこの日のかをり」が漂って来たのである。
 〔返〕  夏めいた絹のワンピに包まれた胸の谷間に流れる汗よ
 

(相模原市・阿久津シメノ)
〇  花疲れたがを外して皆横臥

 さすがは相模原市にご在住の阿久津シメノさんである。
 「箍を外す」などという、今となっては骨董品級の極めて珍しい言葉を御存じでいらっしゃるのである。
 その昔、掲句の作者の阿久津シメノさんの母方の御祖父殿は、はるばると故郷の新潟から灘の酒蔵まで出稼ぎにお出掛けになられ、箍の嵌った巨大な桶を日夜掻き回して、灘の生一本の醸造にご努力なさったのでありましょうか?
 〔返〕  花疲れ箍を外して寝てみたが鼾激しく安寝もならず


(松江市・三方元)
〇  爛漫の花は裸の女身仏

 昨日、連れ合いと一緒に、東京・六本木の国立新美術館で行われている「イメージの力」という企画展を鑑賞した後、東京ミッドタウン内の「とんかつと豚肉料理の平田牧場・東京ミッドタウン店」を気張って「三元豚のとんかつ」を食べてみましたが、値段のわりには美味しくありませんでした。
 突然、埒も無い事を言い出したりしてご免なさい。
 掲句の作者の御氏名が「三方元」さんであることを知った瞬間、つい昨日のことを思い出してしまい、ふと、口にしてみたまでの事でありますから、掲句の作者の三方元さん及び本ブログの読者の方々、何卒、ご許容の程、宜しくお願い申し上げます。
 それにしても、「爛漫の花」を「裸の女身仏」に見立てるとは、三方元さんという俳人は、あれでなかなかのHな男性と思われるのである。
 〔返〕  爛漫のテレビコマーシャルに出るのだけは止めて下さい吉永小百合さん


(日立市・國分貴博)
〇  さつと来てさつとやむ雨初鰹
(金沢市・今村征一)
〇  もつともつとやんちやに育て菖蒲の湯

 「さっと来てさっとやむ」と書けばいいのに「さつと来てさつとやむ」と書いたりする。
 また、「もっともっとやんちゃに育て」と書けばいいのに「もつともつとやんちやに育て」と書いたりする。
 揃いも揃って、俳人たちはどうしてこんなに気取り屋ばっかりなんだろうな?
 「現代仮名遣い」が施行されてから六十年以上経つ今日、こんな訳の解らないことばかりしていると、そのうち、誰にも振り向かれなくなってしまいますよ!
 〔返〕  もっともっと素直な気持ちで詠むがいい!さっと行きさっと詠め吟行!
 

(坂戸市・浅野安司)
〇  日本一でかい湖夕霞

 掲句の創作意図は、「近江八景」にもう一景を加えて「近江九景」にしようとする試みでありましょうか?
 だとしたら、新しく加わったこの景色の名称を、私は勝手に「雄琴夕霞(おごとのせきか)」とさせていただきます。
 ところで、掲句の作者の浅野安司さんは埼玉県坂戸市にお住いの男性。
 掲句を鑑賞するに際して検索したところ、浅野安司さんがお住いの埼玉県で最もでかい水たまりは「狭山湖(正式名称は山口貯水池)」であり、その広さは、7・2平方キロメートルである。
 その一方、我が国で最も湖として知られる琵琶湖の広さは、670・4平方キロメートルである。
 更に詳しく検索してみたところ、浅野安司さんがお住いの埼玉県の総面積は、3797平方キロメートルであり、その中の坂戸市の総面積は、40・97平方キロメートルである。
 と、言うことは、仮に琵琶湖水の中に浅野安司さんのお住いの在る埼玉県坂戸市を浮かべたとしたら、この度、浅野安司さんがご入浴なさった琵琶湖岸の雄琴温泉のお風呂の中に、他ならぬ浅野安司さんご自身の肉体を浮かべた程度のものでしかない、ということにもなり、びっくりしたのなんのって、それはあまりにも驚嘆に値する事実なのである。
 その超広大な琵琶湖面をすっぽり包むようにして出現する夕霞。
 掲句の作者・浅野安司さんが、この度、宿泊先の雄琴温泉の湯舟の中から望んだ夕霞は、かくも雄大なのである。
 〔返〕  我がものを蔽へるものと較べたらあまりにでかい琵琶の夕霞

  
(大阪市・森田幸夫)
〇  くびれたる胴にあらねど踊子草

 大阪市にお住いの森田幸夫さんは、この度、福島県は常磐ハワイアンセンターまでお出掛けになられ、その帰途に、五色沼の畔で「踊子草」を御目文字なさったご様子。
 でも、常磐ハワイアンセンターのフラ嬢ではありませんから、「踊子草」の「胴」が括れている訳はありませんよ!
 そう言えば、今から3年前の秋の一夜、私は、大阪府高槻市の実弟宅のご祝儀に出席した後に、寄せばいいのに助平根性丸出しで、遥々と阪急電車に乗っかって大阪一番に胡散臭い下町として知られる十三まで出掛け、その当時評判の「十三ミュージック」に入り、「くびれたる胴」をくねくねさせて踊るストリップショーに現を抜かしたことがありました。
 それからしばらくして後に、彼の舞台に大阪府警の警官どもが泥足を踏み入れたとの情報に接しましたが、あの「胴」が括れたダンサーたちは、今頃、何処でどんな暮らしをしているのでありましょうか?
 あの時、あの「胴」の括れた踊り子たちと私の間に何があったという訳ではありませんが、彼女らの御立派な裸体を拝ませて頂いたのも、それはそれで「一夜の恩」には違いがありませんから、少しく心配な気がする、今日この頃の私なのである。
 〔返〕  括れたる胴の下から覗かせる黒猫みたいな愛しきものよ


(横浜市・神野志季三江)
〇  幸せになろうとしてた春だった

 横浜市にお住いの神野志季三江さんと言えば、私たち朝日歌壇の読者にとっては、かつてはマドンナのような存在でありました。
 その神野志季三江さんのお名前を、今頃になって、どんな訳で、朝日歌壇の末席で拝見しなければならないのでありましょうか?
 本日付けの朝日新聞第一面に掲載されたカラー写真入りの記事を拠ると、「記録的な豪雨にも関わらず、東京都下調布市の≪味の素スタジアム≫に蝟集した、老若男女、七万人のファンの見守る中で昨夜強行された今年度の≪AKB48≫の総選挙に於いて、人気抜群、しかもある投企筋からの大量投票が噂されていた指原莉乃嬢が、善戦虚しくライバルの渡辺麻友嬢の前に膝を屈して、そのセンターの位置から退くことを余儀なくされた」とか。
 ということになりますと、私たち短歌ファンのかつてのマドンナ・神野志季三江さんが、節を屈して短歌から俳句へと転向したのも、寄る年波を考慮すると、已む無き事とは存じますが、それにしても、この度の彼女の転向は、評者の私にとってはあまりにも残念なことである。
 ところで、本句は読んで字の如く「幸せになろうとしてた春だった」ということでありましょうが、あの神野志季三江さんが、このような老いの繰り言を口から出だすまでに至るには、その背後に何らかの哀しい出来事が出来していたのかも知れません。
 或いは、掲句の作者・神野志季三江さんの出生地は被災地・福島県であり、彼の地には、未だ彼女の縁者がお住いなのかも知れません。

 〔返〕  いましばし『時差をください』これからが神野志季三江の青春なんです
 上掲の返歌中の『時差をください』とは、2005年4月に神野志季三江さんが上梓した歌集の名称である。(「梧葉出版」刊)

〇  ストーブに埃焦げる香、冬はいつも記憶をたぐるように始まる(神野志季三江作・2000年11月26日・朝日歌壇入選作)
 この度の神野志季三江さんの俳句への転向に伴って、私たちは短歌の世界から永久にこの一首に見られるような静寂と記憶とを失ってしまうのである。

〇  罰のごとく八月であるこれでもか暑いか独りかまだうた詠むかと(神野志季三江作・2004年9月6日・朝日歌壇入選作)

〇  でこぼこのまんまで生きてゆくわたしでこにもぼこにも磨きをかけて(神野志季三江作・2014年3月25日・朝日歌壇入選作)

 尚、1995年1月に青弓社から刊行された『死刑囚監房』(マイク・ジェイムズ編/神野志季三江訳)も、なかなかの名著である。         

今週の朝日俳壇から(6月8日掲載・其の?)

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[長谷川櫂選]

(四日市市・水越アツ子)
〇  衣替一人で転ぶ淋しさよ

(八尾市・濱田幸策)
〇  人の世にゆらゆら着きぬ竹落葉

(三重県明和町・森田信乃)
〇  菖蒲湯のもてなし最後風呂屋閉づ

(福岡市・松田隆)
〇  太古より若葉の海に人棲めり

(多摩市・吉野佳一)
〇  川風に吹かれてゆくや五月場所

(西尾市・田中伸二)
〇  黒揚羽ぶだう若葉に置くいのち

(東京都・池田合志)
〇  われら皆地球の子なり原爆忌

(群馬県東吾妻町・酒井せつ子)
〇  母亡くし毎日母の日となりぬ

(長岡市・内藤孝)
〇  旺洋として風薫る信濃川

(松山市・河村章)
〇  毎日が日曜日でもクールビズ

今週の朝日俳壇から(6月8日掲載・其の?)

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[大串章選]

(多摩市・崎山亨)
〇  武蔵野が武蔵野となる緑かな

(泉大津市・多田羅初美)
〇  母の日の母詠むことを供養とす

(神戸市・高橋寛)
〇  青嵐音叉の低く応へけり

(阿南市・湯浅芙美)
〇  磯遊び太平洋の風の中

(神戸市・日下徳一)
〇  踊りつつ出を待つサンバ風薫る

(東京都・大澤都志子)
〇  利き酒のごとく新茶を汲みにけり

(佐賀県基山町・古庄たみ子)
〇  菜殻焼く里山一つけぶらせて

(高萩市・小林紀彦)
〇  ほめられて早苗運びし昔あり

(東京都・望月清彦)
〇  置かれある白き団扇のうれしさよ

(熊本市・永野由美子)
〇  涙拭きたるハンカチを洗ひけり

今週の朝日俳壇から(6月8日掲載・其の?)

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[稲畑汀子選]

(藤沢市・小田島美紀子)
〇  大落暉とろりと溶けし夏の海

(札幌市・菅原ツヤ子)
〇  ライラック見え吾が街に着きにけり

(北海道鹿追町・高橋とも子)
〇  六月に近きと言ふも蝦夷は雪

(神戸市・岸田健)
〇  口ひとつ利かず団欒穴子飯

(宝塚市・大石勲)
〇  むらさきに秘めたる思ひ桐の花

(芦屋市・田中節夫)
〇  装ひを新たにしたる山涼し

(高槻市・会田仁子)
〇  視界みな樗の花に埋まりけり

(さいたま市・大石大)
〇  菖蒲湯の男の子に戦させまいぞ

(西宮市・吉田邦男)
〇  崩るるにもう風要らぬ大牡丹

(大牟田市・古賀昭子)
〇  蛇衣を脱ぎ野の色に紛れたる

今週の朝日俳壇から(6月8日掲載・其の?)

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[金子兜太選]

(新宮市・中村盛春)
〇  饒舌の人等の夏の元気かな

(前橋市・荻原葉月)
〇  憲法の抜け道探ぐる木下闇

(東村山市・盥日央鶴)
〇  筍の泥を落せば我が子かな

(神戸市・豊原清明)
〇  暗闇で熟睡したる青鷺や

(船橋市・斉木直哉)
〇  新緑や朝の裏手の我が深林

(北九州市・権代政樹)
〇  流れゆく薔薇にも薔薇の花筏

(藤岡市・飯塚柚花)
〇  片言の会話赤子と葦切と

(岸和田市・小林凛)
〇  コルク栓夏の宴の名残かな

(紀の川市・橋本哲次)
〇  鳥影の器大きく五月かな

(島根県邑南町)
〇  ほととぎす禿頭なればつるり撫づ

今週の朝日歌壇から(6月8日掲載・其の?)

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[佐佐木幸綱選]

(ホームレス・坪内政夫)
〇  山谷までさがし歩いた亡母と聞くカーネーションよ大空に咲け

(福津市・堀内澄子)
〇  花束が二つ並びぬ娘より娘は子より「母の日」なれば

(飯塚市・甲斐みどり)
〇  どんたくに初参加して風景の一点となる大好き博多

(半田市・榊原めぐみ)
〇  霧まとい迫る不気味な艦隊のごと集団的自衛権行使

(函館市・武田悟)
〇  津波の碑・飢饉の碑ある大八洲頭垂れずに解釈変へる

(新潟市・伊藤敏)
〇  反戦を詠む投稿歌増えにけりそれだけ危機の迫れる証しぞ

(大阪市・藤田ミヤ子)
〇  昆虫の標本のごとく臥せる日々癌やっつける薬に負けて

(いわき市・馬目弘平)
〇  見るほどに貌も仕草も明るくて老いも子どもも無邪気な泥鰌

(瑞穂市・渡部芳郎)
〇  渇水の瀞に眠れる龍神の目覚め待たるる鮎上る川

(広島市・大堂洋子)
〇  お隣のおばあちゃんちのおすそ分け蕨の灰汁は五月の緑

今週の朝日歌壇から(6月8日掲載・其の?)

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[高野公彦選]

(横浜市・田口二千陸)
〇  戦争を知らない人の大望で開かれてゆくパンドラの箱

(前橋市・荻原葉月)
〇  憲法の抜け穴探るまつりごと議事堂古りて罅の入りたり

(国立市・半杭螢子)
〇  眺望よきこのマンションは心地良しされど夫は夜の森を恋ふ

(常滑市・広瀬健三)
〇  はたちとはあまりにはるか おおぞらのはたてをわたる風のごとくに

(福岡市・宮原ますみ)
〇  「田中くんは殊勲甲ね」と六十年ロサンゼルスに住む姉の言ふ

(ホームレス・坪内政夫)
〇  重たくて坂道バックのリヤカーをコント劇のごと笑われている

(神奈川県・九螺ささら)
〇  道の駅 空の駅 海の中の駅 時間の駅としての我々

(宇部市・小林善子)
〇  玉葱の鬚根をむしり軒下に吊るす幸せ卒寿の世過ぎ

(東京都・上田国博)
〇  身のうちのブラックホールに吸はれゆくジョギングあとのビール一杯

(富山市・松田わこ)
〇  ねえちゃんの頭の形知りました今朝めずらしくなぐさめた時

今週の朝日歌壇から(6月8日掲載・其の?)

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[馬場あき子選]

(蓮田市・斎藤哲哉)
〇  春の子を亡くして今朝も山鳩はゴロッポンポン木魚を叩く

(埼玉県・小林光)
〇  自衛隊の喇叭長たりし老の吹きゆく春惜しむ消灯ラッパ

(西条市・亀井克礼)
〇  わが庭の鵙をききつつ名人戦みる羽生挑戦者の長考のライブを

(岡山市・深井克彦)
〇  大好きなロックをかけて高速を飛ばせば虹をくぐるが如し

(富山市・松田由紀子)
〇  高校生コーヒーなんか飲み出して人生の話までし始めて

(南相馬市・池田実)
〇  また一人ましな現場を求め去る浪江の空の渡り鳥のごと

(東京都・上田結香)
〇  「お疲れ」とバイトのような挨拶で学生らは散る夕暮れの街に

(札幌市・藤林正則)
〇  国後島ゆ移植されたる千島桜深く根を張り地を這いて咲く

(福井県・大谷静子)
〇  遊漁船か小舟一艘帰り来ぬ五月の海を原発を背に

(京都府・中西桜)
〇  テニスボール高く打ち上げ鳥になりふつうのボールになり戻りくる

今週の朝日歌壇から(6月8日掲載・其の?・書き込み中)

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 一昨日の真夜中に、当ブログのコメント欄に「厄病なビーズ死臭よ、今直ぐにくたばれ!」とのコメントをお寄せになられた「通りすがり」の方は、何処の地にお住いの何方様でありましょうか?
 当方としては、一日も早く黄泉路に旅立ちたい気持も無きにしも非ず、という精神状態ではありますが、私亡き後の妻子に暮らしに就いての心配もありますし、私亡き後の短歌界の混乱ぶりも少しく気がかりでありますから、当分の間、あなた様のご期待には添えません。
 それに。当ブログのブログタイトルは「厄病なビーズ死臭」に非ずして、「臆病なビーズ刺繍」でありますから、これからはお間違いになられませんように。


[永田和宏選]

(磐田市・牧野義輝)
〇  身に過ぎる気高き理想掲げ来て我等がものに終に成し得ず

 真面な発想からすると、詠い出しの「身に過ぎる気高き理想」とは、安倍内閣に拠って今しも蹂躙されようとしている「日本国憲法」を指して言うのであり、取り分けその中の「第九条及びその第2項」を指して言うのでありましょう。
 しかしながら、数多い日本人の中には、「特定秘密保護法反対キャンペーン」の本山たる「朝日歌壇」に、「振り返り見ればあの日の立法が転換点だと分かる日がくる」(1月20日・野上卓氏作・永田選)という、朝日新聞社や選者諸氏に迎合するが如き作品を敢えて投稿し入選し、純情直線まっしぐらの評者が、「朝日新聞社が社運を賭して特定秘密保護法制定に反対する立場を取り、永田和宏氏などの選者諸氏と一体となって朝日歌壇の掲載作品で以って世論誘導を図ろうとしている現状に於いては、『猫も杓子も特定秘密保護法関連の一首をものして、あわよくば、永田和宏選の首席にでも選ばれ、今生の思い出にしてみよう』と思ったりするのも当然のことでありましょう。しかしながら、それら猫や杓子に伍して、我らが戯作者・野上卓さんが敢えて言挙げをなさる必要は、さらさらにありません」などと、極めて真っ当な論評を試みるや否や、即、澄まし顔にて「このところ面白い経験をしています。振り返り見ればあの日の立法が転換点だと分かる日がくる、という歌が秘密保護法に反対している、という風に読まれ、心あるみなさんのブログにそう解釈されて、転載されているのです。さいわい此処のわが敬愛するブログの主は、心のありようが違うので、わたくしの、短歌に対する姿勢、というか朝日新聞におもねることをうれいてくださいます。感謝感謝。/でもどこに秘密保護法なんて書いてあるのかなあ。ああいう風に選歌されればしょうがないのかもしれませんけどね。これを秘密保護法に一方的に結びつけるのは勘弁してほしいと思います。まあでも、歌は作者の手を離れればどう扱われ、どう読まれようとも、仕方ないんでしょうね。」などとの惚けたコメントを寄せられ、評者の頭脳明晰ならざるところを天下に曝け出さしめるような歌人もいらっしゃるようですから、ゆめゆめ断言するつもりはありません。
 よくよく熟慮してみれば、「閣議決定に拠る憲法9条解釈の変更」でさえも、ある筋の方々にとっては「身に過ぎる気高き理想」であった可能性がありましょうし、「≪ザッケローニJAPAN≫に拠るワールド杯ブラジル大会制覇」も然り、卑近な例を上げれば、「記録的な豪雨の中を過日行われた≪AKB48の総選挙≫の際の指原莉乃(サシコ)のセンター再選」さえも、ご当人及びその取り巻きの助平な中年男性たちにとっては「身に過ぎる気高き理想」に他ならなかったはずだからである。
 しかしながら、掲歌の作者が、彼の著名な戯作者ではなく、磐田市にお住いの牧野義輝さんであることから判断すると、作中の「身に過ぎる気高き理想」とは、やはり「日本国憲法・第9条及びその第2項」と断定しても宜しいような気がするのである。
 だとすれば、その条文は以下の通りである。
 即ち「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」「2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と。
 
 改めて言われてみれば、確かにその通りである。
 第二次世界大戦直後の世知辛い国際社会を前にして、私たち「日本国民」は、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」などと声高に宣言し、あまつさえ「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と絶叫するまでして「身に過ぎる気高き理想掲げ来」たのであるが、結局はその「気高き理想」を「我等がもの」には「成し得ず」して、我が国の平和と国民の生命の尊厳は憲法第9条と共に、「集団的自衛権」なるものの「行使」を企てようとする徒輩の思うがままに蹂躙されようとしているのである。
 朝鮮戦争下の昭和25(1950)年8月10日に、恰も「本家の跡取り息子(あんつぁ)から泥棒除けの刃物を所持することを許された妾の子みたいな立場」で設立された「警察予備隊」なる組織が、翌々年の昭和27(1952)年10月15日になると、恥ずかしながら名称を「保安隊」と改め、更にその翌々年の昭和29(1954)年7月1日には、その名も「自衛隊」と改めるなど、まるで「陸上競技の三段跳び」みたいな屈折的な飛躍を遂げたのであるが、彼らの元気を、専ら国内の災害救助や海外で紛争が発生し国連軍と称する軍隊が出動した場合の後方支援組織として使うだけでは勿体ないとする考えを持つ一方、今では「本家のあんつぁ」たる資格を失わんとしている米国の指図も受けたりする事もあって、この度の運びとなったのである。
 今の私たち日本国民は、こうした寸借詐欺的な行為を是とするか否とするかの判断を迫られているのであるが、「この際は、お前たち末端の者の意見などはどうでも宜しい!その措置は、お前たち国民大衆から絶大なる支持を受けてこの国の運営の全てを担っている私一人の判断に任せなさいは!」とするのが、安倍宰相の考えなのでありましょう。
 〔返〕  身に余る平和憲法持つ故に煩悩尽きなきこの国の民
 昨日も亦、東京都内の某所を会場として、約三千人の識者の参加を得て、ノーベル賞作家の大江健三郎氏らが集団的防衛権行使反対集会を開催した。とのこと。
 〔返〕  身に余るノーベル賞など授けられここは死に花咲かせにゃならぬ


(東京都・野上卓)
〇  野党みな小異を捨てず政権の与党が思いのままにふるまう

 詠い出しの十二音が「野党みな小異を捨てず」となっていますが、作者が戯作者でありますれば、「小異」とはいかなる事実を指して言うのか、皆目見当がつきません。
 世に「大同小異」という四字熟語がありますが、その中の前者の二字「大同」という点に就いては、「維新」を筆頭にして「石原新党・みんな・結い」、更には「民主」までも、揃いも揃って、「隙在らば公明の後釜に座り、与党の末席を穢そう」とする魂胆が見え見えでありますが、後者の二字「小異」という点に就いては、光学顕微鏡を持ち出して観察しなければ識別し得ないような代物なのかも知れません。
 もしかしたら、世間体も在るから、絶対与党の自由民主党への擦り寄り方に、多少の異なりが見られるだけの事なのかも知れません。
 それはそれとして、本作の表現に就いて、一言二言申し上げますと、三句目の「政権の」という五音は、単なる字数合わせの為の贅言ではありませんか?
 寡聞にして私は、我が国の憲政史上に、未だかつて「政権の座に就いていない与党」が在った事を知りませんし、私たちの極めて常識的な常識からすれば、「与党」即「政権党」なのであるから、私ならば、この場面に於いては、「野党みな小異を捨てず狡猾な与党が思いのままにふるまう」或いは「野党みな小異を捨てず老獪な与党が思いのままにふるまう」或いは「野党みな小異を捨てず小児的与党が振る舞い我が儘放題」とでも改作させていただきたいとも思いますが、本作の作者が、あの自由民主党を「狡猾な」とするか否か、「老獪な」とするか否か、「小児的」とするか否かは、私の判断するところではありませんから、このまま放擲しておくしか方法がありません。
 〔返〕  野党みな大同小異なればこそ選挙目当ての離合集散  


(鎌倉市・小島陽子)
〇  居るだけで熱を放っている息子キャンプ留守中部屋広くあり

 選者・永田氏の寸評に「小島さん、嵩高い息子の居ない束の間の休息」とある。
 と、すると、永田氏は、作中の「熱を放っている息子」を、「身長が高くて図体が大きい息子」乃至は「崇高で壮大な美しさがある息子」と解釈してのかも知れません。
 だとすると、寸評中の「嵩高い」は「丈高い」と記さなければなりません。
 私見に拠ると、「居るだけで熱を放っている息子」とは、「居るだけで鬱陶しく感じる息子」の意である。

 〔返〕  見ただけで疲れを感じた永田氏は早く彼岸に行きたいのかな?
 私の愛読しているホームページの一つは、東郷雄二氏の「今週の短歌のページ」及び「橄欖追放のページ」であるが、その中の2007年1月8日記載分の記事の中に、「京都は寺町二条に三月書房という本屋がある。京都では歌集を多く置いている唯一の本屋で、短歌好きのあいだではよく知られている。いつぞやも短歌の書棚を見ていたら、『こないだテレビで(文部大臣賞の)授賞式のお父さん見たわ。疲れたはるみたいやったな』と店主が店に入ってきた男性に親しげに話しかけている。その男性は青磁社社主の永田淳さん(永田和宏氏のご長男)だった」という件があった。
 三月書房の店主が青磁社社主の永田淳さんが語り掛けた言葉にある如く、「歌人・永田和宏氏は、確かに疲れている」、この頃の「NHK短歌」で見掛ける彼も、かなり以前、さる講演会の折に、演壇の前に立って私たち聴衆に向かって語り掛けた時の彼も、確かにこれ以上の疲れは無いほどに疲れているような姿を私たち聴衆の前に曝していたのである。
 あの疲れは、今は亡き奥様の河野裕子氏が、病床に就かれた以前より始まった疲れなのかも知れません。
 あの生真面目な性格では、朝日歌壇の選者として毎週数千通の葉書を点検して、その中から僅かに十首の秀歌を選び出す作業も、毎年の新春の「歌会始の儀」の選者としてのご苦労も、結社誌「塔」の主宰としての任務も、人並み以上に疲れる作業なのかも知れません。
 
 

(小平市・桂木遥)
〇  残雪を車窓に見つつ大糸線ゆるき勾配ゆっくり登る

 真面目で地味な作風ながらも、後立山連峰や白馬連山の雄姿を左手に望みながら長野県松本市の松本駅から新潟県糸魚川市の糸魚川駅に至る「大糸線」、即ち、愛称「北アルプス線」「アルプスブルーライン」の高山鉄道としての特質を端的に描き得た作品である。
 〔返〕  大糸線 田中冬二の詩に詠める佐野坂峠のポストを下る

 ごろりごろりごろり
 石臼に夜があける
 豆腐が山のつめたい水に
 ざぶんざぶんととびこむ    (田中冬二作『小谷温泉』)


(松阪市・こやまはつみ)
〇  バケツ内で方向転換できぬ亀ぶらさげ帰る野球少年

(塩釜市・佐藤龍二)
〇  ケースより眼球出して嵌め込めばひどく眩しい六月の空

(草津市・山添聖子)
〇  泣きそうな私が映るガラス窓泣きやまない子を抱きしめながら

(大阪市・原正樹)
〇  きみの家どこにあるかを確かめず送り別れし蛍の岸辺


 〔返〕  君の陰処(ほと)何処ら辺りに在るのかも知らず抱き合ふ逆さ螢よ

(東金市・山本寒苦)
〇  ひかるるを何故に車が楽しむと書くかを知らず横たはる猫

富山市・松田わこ)
〇  ねえちゃんの頭の形知りました今朝めずらしくなぐさめた時

 今更、私如き非才がくどくどと解説するまでもなく、掲歌の作者の松田わこさんの「ねえちゃん」は、朝日歌壇でお馴染みの松田梨子さんであり、この二人姉妹のママは、今週の「馬場あき子選」の五席入選者の松田由紀子さんである。
 二人の娘さんたちと較べるとかなり歌才に乏しいと思われ、朝日歌壇にもごくたまにしか入選しないママのことは暫らく措いておくとして、私はこの際、この二人姉妹の仲良しぶりに就いて言及してみたいと思う。
 仲良し二人姉妹の中の「ねえちゃん」の梨子さんがこの4月に新高校生となり、妹のわこさんが新中学生となった事は、朝日歌壇の読者ならば何方でもご承知の事でありましょう。
 ところで、4月21日の「馬場あき子選」入選作の松田梨子作の「いろんなこと卒業します新しい制服という羽をもらって」及び、3月17日の「馬場あき子選」入選作の松田わこ作の「いつしても何度やっても幸せだ制服のリボン結ぶ練習」の表現に拠ると、この仲良し二人姉妹は、共に新しく入る学校の「制服」にものすごく執着していることが窺われのであり、其れを根拠にして想像を逞しくしてみると、この仲良し二人姉妹の進学先は、共に極めてセンスのいい制服が評判の私立学校かと推測されるのであり、また、私のそうした推測は必ずしも的を射損なったもので無いことは、、二人のママの松田由紀子さんの5月5日の「高野公彦選」の入選作、即ち「もそもそと春休みから抜け出してピリリと子らは制服を着る」に拠っても裏付けられるのである。
 新中学生や新高校生にとって、取り分け女子のそれにとっては、自分が合格した第一志望校のセンスの良い制服こそは、これまでの自分の努力に対する、この上無いご褒美であり金メダルであり、自分の明るい未来のシンボルのようなものでありましょう。
 したがって、あの頭脳明晰な仲良し姉妹たちが新入学先の「制服」を前にして、「新しい(制服という)羽をもらって」と狂喜し、「いつしても何度やっても幸せだ制服のリボン結ぶ練習」と、人目も憚らずに乱舞するのも当然の事でありましょう。
 その愛らしい姉妹たちの姉の梨子さんは、「走るたび私のどこかでリンリンと鈴が鳴る入学式の朝」(馬場及び佐佐木選)と、「入学式の朝」の晴れがましい気持ちを詠んだ歌を私たちの前に披露したのは、風薫る5月5日の子供の日の事であり、その以前に彼女は、「受験終えゆっくり巡る本屋さんチェーホフの桜の園を買う」(4/7・馬場選)と新しい学校生活を前にしての限り無い余裕さえも私たちの前に示していたのである。

今週の朝日歌壇から(6月8日掲載・其の?の2・クロネコ早川特別便)

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[永田和宏選・第二席]

(東京都・野上卓)
〇  野党みな小異を捨てず政権の与党が思いのままにふるまう

 劇作家として著名な野上卓さんの短歌作品が、5月19日と6月8日と週を隔てて連続して「朝日歌壇」に掲載された。
 5月19日に掲載されたのは「日本人の顔は変わりぬ喜多院の五百羅漢に仲間はおらず」と、ご自身の見聞と身辺事情に取材しながらも昨今の世相をも風刺した、含蓄の多い作品であり、内容形式共に整然とした傑作であったが故に、評者の私としては、野上さんの作品を比較的によく採る「馬場あき子選」の首席に推されるのが当然かとも思ったのであるが、その折の選者の馬場あき子先生が、如何なる心理状態に置かれていたのか、被災地・福島の住人たる美原凍子さんの、恰も妖魔の呪言の如き御作「全村避難の村の桜はさみしかろしいんと咲いてしいんと散って」を推されるに至ったので、野上さんの傑作は末席に近い(五席)扱いであった。
 6月8日に掲載されたのは掲出の作品であり、これ亦、現今の政局を婉曲的に風刺した佳作であったから、前述、5月19日掲載分と同様に首席に推されても当然かと判断されたのであるが、選者の永田和宏氏が、朝日新聞社の「集団的自衛権行使反対キャンペーン」に阿り追随しただけが取り得の、磐田市にお住いの牧野義輝さんの御作「身に過ぎる気高き理想掲げ来て我らがものに終に成し得ず」という漢字遣いの間違い(はと記載しなければならない)を伴った作品を首席に推したので、第二席に甘んじる結果とは相成ったのである。
 私は、正義の味方「月光仮面」を装う、朝日新聞社のそうした見え透いた遣り方に大いなる義憤を感じている。
 社説や一般記事でストレートに言えないような重大事を、「朝日歌壇」や「朝日俳壇」や「声欄」に蝟集する有象無象どもやしがない庶民たちに言わせて、自らは澄まし顔しているのが気に喰わないからである。
 という訳で、私は、真実の庶民の味方であり、朝日歌壇切っての理性派歌人である野上卓さんの短歌作品が大好きの大好きなのである。
 当然の事ながら、大好き中の大好きの短歌作品が朝日歌壇の入選作品として新聞紙上に掲載されたならば、日本語で書いたり、話したりする事が出来る者なら何方でも、当該作品の作者の方に賛意を伝える電話をしたり、手紙を書いたり、メールで以ってその事を述べたりする事でありましょう。
 しかしながら、私と野上卓さんとは、電話や手紙やメールを交換するような、格別に親しい間柄ではないから、私は致し方無しに、私にとっての第一番に手慣れた方法で以って、野上卓さんの御作に対する思いをストレート(?)に伝えようとするのである。
 私にとっての、第一番に手慣れた方法とは、私自身の屈折した意見とか思いとかを、私が管理するブログ「臆病なビーズ刺繍」に、私自身の屈折した文体で以ってストレートに記す事である。
 そういう次第で以って、私は、今回の野上卓さんの快挙(?)に際しても、以前と同じように、最大級の讃辞を述べると共に、些細なる不満点などに就いても遠慮会釈無しに指摘させていただいたのであり、野上卓さんからも、折り返し、懇切丁寧なるコメントを頂戴した次第なのである。
 此処で、言葉不足や誤解の無いように、一言申し添えて置きますが、私が、私自身の目にした文芸作品に対して、私自身の屈折した思いや意見を述べるのは、何も野上卓さんの御作に対してだけではありません。
 芸術院会員というご立派過ぎる肩書をお持ちの方々の御作にだって、歌人の五十嵐きよみさんが主宰の「題詠2014」に参加なさって居られる、いわゆる「歌人ちゃん」たちの作品にだって、短歌総合誌や結社誌に掲載されている作品にだって、是という作品であれば、最大級の讃辞を述べるし、気に喰わなくて赦し難い作品に出遭えば、思い付くだけの悪口雑言を並べ立てるのであるが、今のところそうした点が、私の唯一無二の取り柄なのかも知れません。
 然るに、最近、私のブログには、私のそうした遣り方に対する賛意や反対意見を述べたコメントがさっぱり入って来なくなりました。
 今から二年程前ならば、私が何方かの作品を槍玉に上げるや否や、「鳥羽よ!お前は何様になったつもりなのだ!私はそのうちに必ずお前を呪い殺してやるぞ!」とか、「鳥羽先生、この度も心のこもったご高評をいただきまして、真に有り難うございます。この夏は、気象観測が始まって以来の熱さだとか。お齢がお齢ですから、お身体には十二分にご留意なさいますように」といった内容のコメントが、恰も三年前の三月、我が国の東北地方の太平洋岸を襲った津波のようにして押し寄せたものでありましたが、ここ一年半余りは、さっぱりお見限りとなってしまいました。
 例に拠って、無駄な前口上ばかりが長くなってしまいましたが、そろさろ本題に入らせていただきます。
 と言うのは、6月8日分の「朝日歌壇」の「永田和宏選」の入選作品に就いての私の鑑賞文に対して、昨夕、作者の中の一人の野上卓さんから、次の通りのコメントが入りましたので、其れを此処にそのまま転載させて頂いた上で、其れに対する私自身の拙い意見や反論なども少しく述べさせて頂きたいと思っうからなのである。

 野上卓さん曰く、即ち「2014-06-11 13:01:13/意気軒昂な日々をお過ごしのご様子、お喜び申し上げます。また朝日新聞、阿り短歌のご批判が出るのかと思ったら、それは、牧野さんのところでしっかりすませ、別のところをうまくついてこられた。言葉のあっせんとして、ご指摘の部分は、それはその通りでしょうね。感謝します。/ただ大同小異と、小異を捨てて大同につく、あるいは小異を残して大同につく、というのは、それぞれニュアンスが違いますよね。/まあ、今回はそれ以上書きません。考えてみれば、わたしはすべて顕名でやっているので、正体を知らない鳥羽さん?とやり合っても仕方ないような気もしますし。」と。

 野上卓さんから頂戴したコメントは、以上の通りでありますが、私は今回、その中の後段の部分「ただ大同小異と、小異を捨てて大同につく、あるいは小異を残して大同につく、というのは、それぞれニュアンスが違いますよね。/まあ、今回はそれ以上書きません。考えてみれば、わたしはすべて顕名でやっているので、正体を知らない鳥羽さん?とやり合っても仕方ないような気もしますし」に就いての、私自身の思いの丈を少しく述べさせていただきます。

 後段の叙述中の「ただ大同小異と、小異を捨てて大同につく、あるいは小異を残して大同につく、というのは、それぞれニュアンスが違いますよね」という件に就いては、野上さんの仰る通りでありますが、「維新」を袖にした「石原新党」を先頭にして、「維新」、「結い」、「みんな、」更には「民主の右派」を加えた徒輩までが、元々は、自民党公認候補として立候補したかったのに、たまたま選挙区の事情が許さず、現在の所属政党或いは離反する前の所属政党から立候補して、運良く当選しただけの事であるから、自民や他党所属の議員とは異なる確固たる政見を持っているはずも無く、彼らの現在の心境としては、一様に「あわよくば、公明党が連立離脱の止む無き事態に陥った場合の後釜を狙っている」といったところでありましょう。
 したがって、野上さんのおっしゃる「小異」なるものは、ただ単に「小異も小異」、「政見などは棄てて措いて、自分だけは、さしたる対立候補も無い状態で首尾良く当選を果たし、議員バッジを胸にして、自民党の幹部諸氏に少しは怖れられる一方、大部分は可愛がられ、気に入られたい、と願っているだけの事」でありましょう。
 したがって、現在の彼ら野党議員の偽らざる心境は「小異を捨てて大同に就くも、小異を残して大同に就くも、何もかも無い」のが実情でありましょう。
 私のそうした推測の正しさは、現政権の内閣官房長官、「秋田のラスプーチン」こと菅義偉氏の、出郷以来の立ち居振る舞い、特に変わり身の早さを以って推測すれば、ほぼ証明することが出来ましょうか?
 以上は、私宛てに野上卓さんがお寄せになられたコメント中の後段部分の前半部に就いての拙い釈明ではありますが、残り半分の部分、即ち「まあ、今回はそれ以上書きません。考えてみれば、わたしはすべて顕名でやっているので、正体を知らない鳥羽さん?とやり合っても仕方ないような気もしますし」に就いては、下掲の拙い返歌で以って釈明させていただきます。
 〔返〕  わたくしも一所懸命書いてます。野上卓さん、乞う、ご容赦!

『かりん』(3月号)掲載の愛川弘文さんの短歌六首鑑賞(再訂版)

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 福島県喜多方市の熱塩温泉山形屋で行われた第七十二期将棋名人戦の第二局は、羽生三冠の第一局に続いての二連勝で終わった、とのこと。
 これまで、森内名人との名人戦での対局は、その実力にそぐわず、羽生三冠に分が無かったのであるが、本七十二局に関して言えば、このまま羽生三冠の一方的な勝利に終わってしまうように予測されるのである。
 私はと言えば、久しぶりに向かった歌評へのパソコン打ちなので、昨日は自分の思いの丈を充分に述べ尽くすことが出来ずに、今朝も裏山から聞こえて来る鶯の渓渡りの声に耳を傾けながら、起き抜けにパジャマ姿のままで机に向っているのである。


(千葉・愛川弘文)
〇  霜月は人を恋う月公園の桜紅葉が入り日に映える

 ひと口に「紅葉」と言っても「伊呂波紅葉・蔦紅葉・楓紅葉・漆紅葉・ぬるで紅葉・空木紅葉・満天星紅葉・草紅葉・公孫樹紅葉・渓紅葉・イタヤ紅葉・柿の葉紅葉」などと、七十路半ばになって、今や地獄の閻魔大王の前に引き出されようとして悪あがきをしている私の朦朧とした記憶の中に在るそれでさえも、十指を以ってしても数えきれない程である。
 本作の作者・愛川弘文さんは、数多い「〇〇紅葉」中から、虫食いだらけで格別に色彩鮮明とも思われない「桜紅葉」を選び出して、この一首の歌を成したのであるが、よくよく熟慮してみると、本作を佳作たらしめた要因の一つは、そうした数多い「〇〇紅葉」の中から作者が選んだ(と言うか、作者の目に入った、と言うか)のが、私たちの身辺に有り触れた「桜紅葉」であった点である、と思われるのである。
 歌材として「桜」を採り上げながら、今を盛りの満開の桜花を選ばずに、殊更に「桜紅葉」を選ぶ歌人はそんなに多いとは思われません。
 しかしながら、あれはあれでなかなか風情の感じられるものであり、近藤芳美の名著『新しき短歌の規定』の中に、「秋雨のしとしとと降る療庭の桜紅葉の音なく散りぬ」という、病気療養中の無名の一青年の作品、病める者の情念が込められた佳作が引用されている。
 ところで、「霜月」とは旧暦十一月の異名であり、私の季節感覚からすれば初冬半ばといったところである。
 然るに、本作の作者の居住地が千葉市内であることや本作から享けるイメージから推すと、作中の「霜月」は、初冬というよりも晩秋といった感じであり、「作中の霜月」=「新暦の十一月」と受け取っておいた方が適切かも知れない。
 とすると、その十一月の半ば過ぎの、とある小春日和の夕刻(その日は日曜日ででもあったのでしょうか?)、本作の作者の愛川弘文さん、即ち、五十路半ばの千葉市ご在住の高校国語教師は、ご自宅の近所の公園のベンチにでも腰掛けながら、「入り日」に照り映えている「桜紅葉」に見惚れているのである。
 と、その時、彼の脳裏に浮んだのは、目前にしている「桜紅葉」の輝きが今年最後の輝き、即ち、この年の命の最後の輝きであり、その輝ける命の在り様は、教師生活三十数年を閲して、生涯平教師のままで終わろうとしている、ご自身のそれと何ら変わりがないという、切ない思いであった。
 それと同時に、彼の脳裏には、彼ご自身の半生の中で出逢った、数々の人との思い出が去来するのであり、その多くは、恋多き彼の青年時代に袖擦り合った女性であったのでありましょうか?
 本作は、私が尊敬して止まない馬場あき子氏主宰の結社誌『かりん』(三月号)の「作品?・A」欄の二席、しかも、その冒頭を飾った佳作ではあるが、何事につけても一言申し添えずに居られない評者の駄弁を以ってすれば、「霜月は人を恋う月」という詠い出しの二句は、何時か何処かで目にしたような感じの月並みな十二音であり、「如月は人を恋う月」「水無月は事多き月」「長月は人呪う月」「極月は金恨む月」などと、幾らでも言い替えが可能なような気がする、とも申せましょう。
 しかしながら、そうした思いは、結局のところ、この佳作を前にしての、評者の嫉妬心が起因する言い掛かりであり、「公園の桜紅葉が入り日に映える」という下の句と「霜月は人を恋う月」という上の句との、生涯一教師の思いの丈の籠った組み合わせは、やはり、不即不離の関係を持つものと感じざるを得ず、一言居士の私・鳥羽省三と言えども、この際は潔く脱帽せざるを得ません。


〇  くしゃくしゃの白山茶花をくしゃくしゃの笑顔に眺む試歩の老夫は

 作中の「白山茶花」の花期と、前作中の「桜紅葉」の見頃とは重なり、たまに訪れた孫娘たち二人に裏山の公園の鞦韆を漕がせながら、目前の桜紅葉に見惚れながら思念に耽っている折に、ふと後方に視線を遣ると、其処の生垣には、「白山茶花」の花が清楚な顔をして微笑んでいた、といった図柄が、私の最近の体験の中の場面にも、確かに在ったような気がする。
 と、すると、本作も亦、前作同様に、とある小春日和の一日に、作者のご自宅最寄りの公園ででも、作者ご自身が実見なさった光景に違いありません。
 「くしゃくしゃの白山茶花をくしゃくしゃの笑顔に眺む」と、本作の作者は、「試歩の老夫」の姿に、ユーモラスで温かい目を向けておりますが、彼の「くしゃくしゃの白山茶花をくしゃくしゃの笑顔に眺む」る「試歩の老夫」こそは、軈て、そんなに遠くない時期に、必ずや遣って来るに違いない、作者ご自身の姿であり、今、こうしてこの作品の鑑賞文を綴るために頭を捻っている私、即ち、川崎市南生田在住の鳥羽省三の今日の午後の姿なのである。
 人間、七十路を越えてしまえば、手足の動きや耳目機能の低下など、身体の衰えは目に余るものがあります。
 残された定年までの数年間を、健康には十分にご留意なさり、奥様及び生徒諸君を大切にして、稔り多き教師生活をお過ごし下さい。


〇  石炭を知らぬ生徒に語りつつ『舞姫』という古書を繙く
〇  ディベートにならぬ『舞姫』豊太郎を弁護する者たじだじとなる
〇  豊太郎の気持ちもわかると言いしゆえに女生徒全部を敵にまわしぬ

 「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと靜にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ來る骨牌仲間も『ホテル』に宿りて、舟に殘れるは余一人のみなれば」とは、森鷗外作の『舞姫』の書き出しである。
 神奈川県立の高校の教壇に国語教師として立ち、彼の「国定教科書向きの著名な教材」を、少なく見積もっても十回ぐらいは扱ったことがある私も、本作の作者・愛川弘文教諭と同様に、「石炭を知らぬ生徒」たちに、この作品を語ることの虚しさに四苦八苦したものでありました。
 したがって、二首目「ディベートにならぬ『舞姫』豊太郎を弁護する者たじだじとなる」とは、その時、その折の、私の実感そのものでもありましたが、私の場合は「豊太郎の気持ちもわかる」とまでは口に出しませんでしたので、「女生徒全部を敵にまわしぬ」といった段階にまでは至りませんでした。


〇  夜明けまで不思議な時間を共有す流星群を妻と眺めて

 「しし座流星群」を観測しようとして、私が、折からの寒さに震えながらも、我が家の狭庭の片隅の鋳物製の椅子に二時間以上も座っていたのは、確か、昨年の十一月十八日の深夜のことのように思われます。
 丁度、その日のその深夜に、数多ある組み合わせの中から不思議なご縁で選ばれて結ばれた、本作の作者・愛川弘文さんとその愛する奥様とは、「夜明けまで」眠らずに「流星群」を「眺めて」いたのでありましょうか。
 「夜明けまで不思議な時間を共有す」という上の句は、「しし座流星群の神秘的な輝きを目にした事もさることながら、数多い女性の中から選ばれて結ばれた奥様と共に、この夜、こうして、夜明けまでの長い時間を眠らずに共有している事の不可思議さをお思いになっての感慨を託されての十七音」でありましょう。                          

『かりん』(4月号)掲載の愛川弘文さんの短歌七首(書き込み中)

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        夕 景

(千葉・愛川弘文)

〇  縹から茜に変わる夕景が胸に沁み入る教室の窓

 年の頃五十代半ばとも、否、いま少し若いとも思われる男性が、千葉県内のとある高校の、とある部屋の窓辺に置かれた生徒用の椅子に腰掛け、辺り一面が縹色に染まる夕景色を眺めている。
 彼はこの高校の国語教師であり、彼の居るこの部屋は、彼の受け持ちクラスが使用している教室なのである。
 彼は身動き一つせずに、この教室の窓辺で、先程から何かを待ち続けている様子なのだ。
 彼が待っているのは何か?
 彼は、終鈴が鳴って帰宅時間が訪れるのを待っているのか?
 彼は、この高校の体育館でバレーボールの練習に励んでいる少女が、練習を終えて彼の許へ進路相談に訪れるのを待っているのか?
 否、否、彼は何かを、誰かを待っていた訳では無くて、彼は先程からこの教室の窓辺に身動き一つせずに座って、刻刻と変わり行く晴れ上がった冬空の景色を眺めながら、彼自身の残り少ない、この高校の国語教師としての時間を眺めていたのかも知れない。
 彼が眺めていたものが何なのかは、彼が待ち続けていたものが何なのかは、この佳作の評者の私には勿論、彼自身にさえ判然としないのかも知れない。
 然し乍ら、斯くしている間にも、彼の腕に嵌められている電波式腕時計の針は少しずつ時間を刻んで進み、先程までは縹色に染まっていた冬の夕景色が、今は先程より少し色を増し、軈ては茜色に染まって行くのである。
 縹から茜に変わる夕景色は、彼のこの高校の国語教師としての残り少ない時間を、彼の残り少ない人生の時間を刻一刻と減少させながら、この頃、頭髪に少しずつ白髪が目立って来た、彼のセンチメンタルな胸の奥に染み入るのである。
 帰宅時間を告げる終鈴はまだ鳴らない。
 進路相談を予約している少女は、体育館からまだ帰って来ない。
 彼に残された時間は益々少なくなり、彼の表情と、灯りの点いていないこの教室内の光景とは、少しずつ暗さを増して行くのである。


 本作の表現に就いて一言することが許されるならば、作者の愛川弘文さんが、本作を「縹から茜に変わる夕景が」という色彩感覚豊かな十七音で以って詠い起こし、四句目に「胸に沁み入る」との感情表現を介在させた上で、「教室の窓」という体言止めの七音で以って収束させている点、即ち、本作に用いられている語句の全てが修飾文節として、末尾に置かれた「(教室の)窓」という名詞一語に重く圧し掛かって行く一文一首の形式に拠って詠まれている点に就いては、評者としての私にとっては、あまりにも惜しまれるのである。
 ならば、如何に詠むべきか?
 かく申す私にも、さしたる代案を示すことは不可能ではあるが、「『教室の窓』から見える『夕景』が、時間の進行と共に『縹から茜』に変り行く様子」を、即物的かつ客観的に捉えて表現すれば、「胸に染み入る」といった余計な感情表現を加えなくとも、そろそろ老境に差し掛かろうとしている国語教師の追い詰められたような心境を表す事が可能だったのかも知れません。
 〔返〕  縹から茜に変る夕景色 帰宅時間をスマホが告げる
      縹から茜に変る夕空を電波時計の六時が走る


 〇  海越しの冬の夕富士あかあかと定年近き教師と話す
 
 本作の作者の愛川弘文さんは千葉県にお住いの高校教師であり、彼が勤務する高校は、眼下に東京湾を望む丘の上に建てられているので、東京湾の「海越し」に富士山の雄姿を一望する事が出来るのでありましょう。
 仄聞乍ら、愛川弘文さんが所属する、結社誌「かりん」には「作品締め切りは前々月の十日」といった、厳格な投稿規定が定められているとのことでありますが、だとすれば、作者の愛川弘文さんが本作をお詠みになった時期は、寒さ盛りの一月下旬乃至は二月上旬でありましょう。
 上の句に「海越しの冬の夕富士あかあかと」とあるが、作中の「夕富士」は、夕陽を受けて「あかあかと」染まり輝いている「富士」であり、しかも「冬の夕富士」であるから、江戸時代の著名な板画家・葛飾北斎の描く「凱風快晴」に見られる「赤富士」とは似ていて非なる「真っ白な雪を被っているうえに赤々と夕陽に染まり輝いている富士」なのである。
 本作の作者の愛川弘文さんは、そうした「夕富士」を遠望する教室の窓辺に居て、同僚の「定年近き教師」と、先刻から何事かに就いて話し合っているのである。
 愛川弘文さんと「定年近き教師」との対話の内容に就いては、評者の私として、いちいち忖度するつもりははありませんが、本作の鑑賞者としての私が拘ってみたいのは、三句目の「あかあかと」という5音の「係り」及び「働き」に就いてである。
 即ち、作中の「あかあかと」という5音は、「海越しの冬の夕富士」という連文節を受け、それを修飾しているのであるから、作中の「冬の夕富士」が、単なる雪の綿帽子を被った「夕富士」であるばかりでは無くて、「山麓から山頂まで雪化粧したうえに、折からの夕陽に染まって『あかあかと』輝いている夕富士」である事を示しているのであり、また、それと共に、この「あかあかと」という修飾語は、それに続く「定年近き教師と話す」にまで掛かって行き、それをも修飾しているのであるから、作者と「定年近き教師」との間で交わされている対話の内容及び彼ら二人の態度が、




〇  あと四年 定年までの年月を想い夕べの富士に向かえり

〇  両肺に針先ほどの転移ありと父は努めて明るく語る

〇  いじらしき重さありけり揺れ残る小枝を去れる冬の雀に

〇  さりげない言葉のうらにさす潮の満ち干を感じ生徒相談

 ついさっき、私は、この連作の一首目の鑑賞文を記すに際して、「彼は、この高校の体育館でバレーボールの練習に励んでいる少女が、練習を終えて、彼の許へ進路相談に訪れるのを待っているのか?」という件(くだり)を、「彼は、この高校の体育館でバレーボールの練習に励んでいる少年が、練習を終えて、彼の許へ進路相談に訪れるのを待っているのか?」としようか、それとも、そのままにして置こうかと迷ったのであるが、そのままにして置いたのが、やはり正解でありました。
 と言うのは、この傑作の三句目から四句目への渡りの叙述が「(さりげない言葉のうらに)さす潮の満ち干を感じ」となっているからである。
 「さす潮の満ち干を感じ」とは、作者・愛川弘文さんのご勤務なさっている高校が、海端に位置する事をさりげなく示しているのかも知れませんが、私たち読者は、それと共に、「潮の満ち干」と女性の生理との関わりを忘れていてはなりません。
 という事になると、謹厳実直を以って知られる、国語教師・愛川弘文教諭が、定年退職を四年後に控えているにも関わらず、「今、目前の小さな椅子に腰掛けて、担任教師である彼に進路相談を持ち掛けている少女に微かな性欲を感じている」という事にもなりかねませんが、人間誰しも生殖機能を持ち、特に男性の場合は、遣い古し、貪り尽くした古女房よりも若い女性の方が良い、と考えがちでありますから、それはそれで致し方の無い事でありましょうし、その上、そうした点が少しぐらい在るのが、この連作の魅力の一つでありましょう。

〇  「先生は」で途切れたままの作文の続き聞きたく聞かずに過ぎぬ

今週の朝日俳壇から(6月16日掲載・其の?)

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[大串章選]

(柏市・藤嶋務)
〇  草矢打つ満天の青揺るぎなし

 「何処かで見た顔ばっかり揃えた俳句だ!」と思って、インターネットで検索したところ「出て来るわ!出て来るわ!」で、ほんの一分間余りの間に、草矢うつきのふ見かけし古物商(市川英一)」、「草矢打つ山のわらしの眉の濃き(政木紫野)」、「満天の青一色の運動会(指出純夫)」、「満天の星に貰ひし花明り(稲畑廣太郎)」、「泰山木花の法則揺るぎなし(岡本晴美)」、「雲のない青嶺いよいよ揺るぎなし(泰子)」、「万緑を突き抜け天守揺るぎなし(加藤サヨ子)」といった類想句を検索し得たのである。
 その気になって探せば、まだまだぞろぞろと出て来るはずであるが、阿呆らしくなって止めました。
 俳句とは、所詮、「それらしき言葉のコラボレーション」なのかも知れません。
 選者の方も、真にご苦労様です。


(加古川市・森木史子)
〇  大夕焼異国に逝きし児等のこと

 「夕焼」という語を用いた俳句と言ったら、「金魚大鱗夕焼の空の如きあり」という「松本たかし作」に止めを刺すし、それに「大」わくっ付けた「大夕焼」という語を用いた句には、「大夕焼一天をおしひろげたる(長谷川素逝)」、「大夕焼石見の色となる玻璃戸(稲畑廣太郎)」、「大夕焼鷗の群に漣す(藤村美津子)」、「大夕焼旅の終りのシュトラウス(雨村敏子)」、「大夕焼空ひとゆすりして消えし(今橋眞理子)」、「大夕焼鳥羽の島々染めつくし(刈米育子)」、「大夕焼奏づるやうにハープ橋(栗原公子)」、「大夕焼旅行半ばのドレスデン(森理和)」、「大夕焼犬も正座の姿勢にて(泉田秋硯)」、「大夕焼あの世が透ける岬かな(関口ゆき)」、「大夕焼草のにほひの土手はしる(松下幸恵)」、「戦サ火を浄めて燃ゆる大夕焼(川端正紀)」、「ポケツトに鳴らす貝殻大夕焼(中嶋陽子)」、「大夕焼雲上にゐること忘れ(落合絹代)」といった、いずれ劣らず、スケールの大きい句が在り、是と人事を重ね合せて、「大夕焼佳きことのみをふり返り(高尾幸子)」、「大夕焼消えなば夫の帰るべし(石橋秀野)」、「大夕焼わが少女期にハイジあり(井口初江)」、「大夕焼少年の鬱慰まず(尾堂?)」などと詠む俳人も居るし、また、「大夕焼絵本の猫がよく笑ふ(小宮山勇)」と人を食ったような句にする俳人も居るが、私の胸の底を覗いていたかのようにして詠んだ句、「よそよそしみなとみらいの大夕焼」は、私も通ったことのある、蓮田病院・耳鼻咽喉科のドクター・竹生田勝次先生の名吟である。


(立川市・星野芳司)
〇  新緑の大学通り老いが行く

(仙台市・柿坂伸子)
〇  サングラス不意打のごと微笑まる

(熊本市・西美愛子)
〇  蛇出でて街の重心傾けり

(岡山市・岩崎正子)
〇  大空へ刻を積み上げ今年竹

(高松市・白根純子)
〇  薫風のごとき一書を贈らるる

(京都市・足立猛)
〇  田を植うる瑞穂の国の園児かな

 〔返〕  早苗採る瑞穂の国の妃かな
      田植えする瑞穂の国の帝かな

(群馬県東吾妻町・酒井大岳)
〇  哲学の道文学の道涼し

(平塚市・日下光代)
〇  万緑や白髪のひと輝けり

 中村草田男に、「万緑の中や吾子の歯生え初むる」という名吟が有る以上、こんな物真似狐のようなつまらない句を詠む必要は無いし、ましてや、鑑賞する必要はさらさらにありません。

今週の朝日俳壇から(6月16日掲載・其の?)

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[稲畑汀子選]

(長岡京市・寺嶋三郎)
〇  やや暑いのが丁度いい老いた妻

(神戸市・高橋純子)
〇  鳥の巣に遠慮してゐる生活かな

(大津市・西村千鶴子)
〇  母の日も口を開けば父のこと

(熊本県菊陽町・井芹眞一郎)
〇  麦秋に染まりて沈みゆく夕日

(奈良市・田村英一)
〇  すずらんに勤めし蝦夷を懐しむ

(大分市・高柳和弘)
〇  旅ひとつ組めり小諸の麦の秋

(神戸市・玉手のり子)
〇  存在の静かな主張花楝

 大阪の「激安スーパー・玉出」は、軍艦マーチを奏でたりしてその存在を超喧しく主張しているのである。

(千葉市・谷川進治)
〇  あぢさゐのほころび初めてうすみどり

(岡山市・岩崎正子)
〇  大空へ刻を積み上げ今年竹

(伊万里市・田中南嶽)
〇  玄関を出づる一歩に螢狩
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